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プラントベースホールフードでがんを克服した症例【前編】

食と栄養に携わるようになって、難病や末期がんから生還した方々に出会うようになりました。両親をがんで亡くしている私は「がん家系だから自分もがんで死ぬのだろう」と漠然と思っていましたが、今ではほとんどのがんが生活習慣病であることを理解しています。

そして私が出会ってきたがんや難病を克服した人たちには、抜本的にライフスタイルとりわけ食生活を変えたという共通点があります。

今回は、肺がんと診断されてから病院での治療と甲田療法(食事の量や摂取する食材を制限すること等が特徴として挙げられる)を併用したのち、がんを克服された男性の症例について前編後編の二部構成でご紹介します。

 

血痰、腫れ、肺がんと診断されるまで

八坂 正博氏は21年前に肺がんと診断され、余命6ヶ月と宣告されました。お酒・お酢・鮒寿司といった発酵食品で知られる滋賀県高島市近江今津で会社を経営していた八坂氏は2000年8月(当時49歳)、体の異変に気付きました。呼吸がしづらく血痰も出るようになっていましたが、不景気で会社が大変だったため病院に行くのは後回しにしていました。ところが、翌月9月には右下肢全体が腫れたまま引かなくなりました。次いで10月には左上肢の腫れが引かなくなり、ようやく地元の病院を受診したのです。

そこで八坂氏の幼馴染で麻酔科医の医師が診察にあたり、エコー検査を行いました。すると、右下肢の静脈に大きな血栓ができていることがわかり、入院して1週間血栓を溶かす点滴治療を受けました。しかし退院後、今度は息が苦しくなり12月に再び入院します。その際に胸部CT撮影をしました。四肢の腫れは改善して12月26日に退院しましたが、退院後も血栓予防のためのワーファリン(抗凝固薬)を服用しながら、また仕事で駆けずり回る日々を送っていました。

年が明けた2001年1月26日、安井医師から自宅に連絡があり「CT画像を某国立大学病院呼吸器外科の医師に見てもらったところ、ステージの進んだ肺がんと診断された」と告げられました。電話を受けた奥様は、電話口で涙が止まらなかったといいます。

2月4日には大学病院を受診し、教授の診察を受けました。診断は左肺門部原発、胸腺転移のある肺がんで、余命6か月、治療すれば1年半の命と宣告されました。そして2月末から同病院へ入院することが決まりました。

甲田療法との出会いと実践

八坂氏は入院を待っている間、大阪府八尾市の某医院を訪れて甲田療法の食事を学びました。そして入院までの10日間、甲田療法のみの食事を実践しました。その内容は、生の玄米を粉に挽いたもの、青泥(緑の葉野菜を5種類以上ブレンダーで混ぜたもの。これは緑の葉のスムージーもしくはフレッシュな青汁とも言えます)、人参、大根、山芋を擦り下ろしたものです。

つまり、彼はPBWF(プラントベースホールフード:植物性の食材をなるべく精製加工することなく食べる)かつローフード(生食)の食事法を実践したのです。2月27日、大学病院に入院してからは院内で提供される食事しか許可されず、甲田療法は実践できなくなりました。というのも、当時は病原性大腸菌O-157の流行があり、提供される食事は加熱食が原則となっていたためです。

八坂氏は入院後最初の3日間は何も食べず、4日目から加熱された野菜とおかゆ、それから病院の売店で購入した生野菜・果物・ペットボトルの水のみを摂取しました。

6ヶ月の余命宣告を受けている身ですが入院してから4週間、検査ばかりで治療は行われません。その上、入院していては甲田療法を実践することもできません。(当時、八坂氏には知らされていませんでしたが、手術を行えなかった理由の1つにワーファリンを服用していたことが挙げられます)

教授回診の折、ついに八坂氏は教授に「治療してもらえないのなら退院させてもらいます」と申し出ました。すると病棟が移動となり、いよいよ治療がスタートしたのです。入院から1ヶ月後のことでした。

病院での治療と甲田療法の併用

治療として月曜日から金曜日まで週5回、計23回の放射線治療(これが放射線を許容できる限界とされる)と点滴、そして内服による抗がん剤治療を並行して受けました。彼は金曜日の放射線治療が終わるやいなや病院を出て滋賀県の近江今津の自宅に向かいました。放射線治療と化学療法により弱った体で電車を乗り継ぎ、やっとの思いで自宅に辿り着く状態でしたが、これも他ならぬ自宅での甲田療法実施のためです。

土日を挟んだ月曜日の朝には治療時間に間に合うよう奥様に車で送ってもらい、病院でも取り入れやすい大根や人参をクーラーボックスに入れて病室に持ち込みました。

ゴールデンウィークに退院しましたが、その後も点滴による抗がん剤治療のための通院が続きました。週に1回・6週間を1クールとして、2〜3週間の休みを入れながら計4クールが予定されました。しかし、抗がん剤の副作用で苦しんで休みがちとなり、治療は予定通りには進みませんでした。内服の抗がん剤は副作用があまりにもひどいので勝手に中止しました。

余命宣告から3年、がんの再発

厳密な甲田療法を実践し余命宣告から3年が経過してから食生活が乱れがちになります。野菜は食べていたものの玄米の生食はやめて、週の半分は肉か魚を食べ、飲酒も時々するようになりました。この間、体は辛いままでした。

2004年6月、乱れた食生活を3ヶ月ほど続けた頃、真言宗に入信し出家を果たした八坂氏は、周囲の人々に支えられながら滝行に向かいました。この時、首の右側がおよそ5cm径で岩のように固くボコボコしていることに気付きます。すぐに大学病院を受診、そこで天理市内の某病院にPETスキャン※1 を撮りに行くよう指示されました。すると左の胸壁にも食パン大の取り込みが見られました。がんの再発です。

余命6ヶ月の宣告を受けてから3年、放射線と抗がん剤治療、そして甲田療法の併用によってがんをコントロールしました。身体にがんは存在しながらも医師の診断に反し長い間がんと共存されてきた八坂氏ですが、2021年7月現在、共存していたがんは消滅しています。

後編では再発したがんをどのようにコントロールし消滅させたのか書かせていただきます。PBWFで病気を治療することが可能であることがよくわかるストーリーとなっていますので、次回も是非お読みいただければと思います。


※1:アイソトープを注射して、がんなど体の中でより活発に活動している細胞を画像としてあらわす検査。


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