「しからば何のために苦学をするかといえば一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない」
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「命がもっとも大事」は本当か?
私たち人間は「これこそが正しい」と思いがちな生き物です。しかしながら日本オーソモレキュラー医学会の会員の方ならびにJSOMウェブメディアをご覧いただいている皆様につきましては、医療に栄養の観点を見出し、すでに柔軟な思考をお持ちの方もいらっしゃるのではないかと思います。そして、さらにその先にもまだまだ柔軟な発想と着眼点が拡がっているはずです。
エッセイ第一弾となる今回は、一般的には“絶対”だと思われる「命」の価値についてさえも様々な価値観や見方があることを扱い、医療の立ち位置を再考してみました。
何よりも「命」が優先ではない
『学問のススメ』で有名な福沢諭吉先生。彼が若い頃に「勉学」に励んでいた時の心境が、自伝の中でこのように語られています。福沢諭吉先生は勉学に没入する以前、大病を患ったために長い闘病生活を送っていたようです。100年前の医療では危うく命を落としかねなかった病。しかしそれでも回復に至った幸運の後には、苦しんだ経験をすっかり忘れて勉学に没頭したようです。その没頭ぶりは非凡なもので「流石に偉人は違う」とうねってしまうような逸話がたくさんあります。
例えばある時のこと、勉強の合間に少し横になろうと枕を探したことがあったようです。けれども、いくら探しても枕が見つからない。散々探した末、どうでもよくなった時にふと思い出します。
「あぁ、そういえば、しばらく枕を使ってちゃんと寝ていなかった」。
このような具合で、まともに横になって睡眠を取ることもないほど勉強に夢中になる生活。現在のような、見栄の知識くらべのための勉強ではないからこそ、効率や無駄など気にせずにただひたすらに打ち込んでいる様子が窺えます。たしかに健康管理という観点からみれば彼の行動は相応しくないかもしれません。
しかし豪快でありながらエネルギーの向け方に純粋さを感じられる数々のエピソード。これにはどうしても胸を打たれてしまいます。そして「命」は守ろうとするだけでは輝かないのではないかとさえ感じさせられます。こうして視界を少しでも拡げてみると、人が命よりも重きを置いたであろう“何か”がいくつも見えてきます。
例えば、昔の武士たちは「忠誠」のために命をかけました。時に宗教家たちは命よりも「信仰」を守ろうとした。あるいは我が子の身の危険を察した親は、おそらく自らの身を差し出してでも子どもを守ろうとするでしょう。
この命の“重み”は、現代におけるエピキュリアン(快楽主義者と訳される)の蔓延やその信者たちが発する「やりたいこと」に対し、格の違いを見せつけます。エピキュリアン同様、価値観が整っていない者もいます。彼らは「お金のため」「見栄のため」「自分の都合のため」といった似て非なる価値と命のやり取りを行います。
このように思考を巡らせていくと、私たち人間は必ずしも「命」を最優先にして暮らしてきたのか?と考えさせられます。そして、おそらくはそうでないかもしれない、少なくとも昔の日本人にとっては。とはいえ、現代人である我々にもいくらかその雰囲気を感じます。ということは、命はいつも環境に最適化されたものだけが残ったわけではないのかもしれません。(体毛なども最適化による産物であるかは疑問ですし)
感染症と命
此度の感染症流行下では、どうもこれまでとは違った「命の尺度」が注目されているように思います。一例を挙げると、それはおおよそ次のような主張です。
「年代によってはリスクが低いため、自粛やその他の対策はやりすぎだ」そして「経済が停滞して自殺者が増えているから経済を回すことが大事だ」という声。また、インフルエンザより死者が少ない、ただの風邪といった意見も聞かれます。
そこで簡易ではありますが調べてみることにしました。とはいえ、経済の停滞は自粛のみでなく増税や関連法規の改定なども関与するものと思われますので、見比べるのはなかなか難しいです。そのため感染対策と経済の相関は他に譲ることにして、こちらでは感染によるとされる死亡者数と自殺者数を挙げてみることにします。
今回は一時、医療逼迫の危機に晒されて大きな話題となった大阪を例にします。ある記事によると、感染による死亡者数は2021年1月で347人、2月は191人、3月は67人、4月は272人と記載されています。(1) 一方、自殺者につきましては1月は123人、2月は96人、3月は91人、4月は112人ということでした。(2)
このデータについて、先に述べた主張通り「数」に注目し、少ない方の対策を緩めるべきということであれば「自殺者については目を瞑れ」という論調が出ても文句が言えない結果となってしまいました。
また、例年のインフルエンザ感染者数は国内で1000万人、死亡者数は2000年以降で214〜1818人のようです。超過死亡概念で推計すると、年間死亡者は世界で25〜50万人、日本国内では1万人とのことです。(3)
一方、現在流行の感染症は2021年6月9日の時点で世界中での感染者数が1.74億人、死亡者は375万人となっています。また、ある統計を参考にすれば国内の感染症の死亡者はおおよそ1300人程度とも考えられます。(4)
自分の感覚や感情がいかに間違っているかを思い知ることが科学の醍醐味でありますから、今回のこの結果には単純に興味が湧くばかりです。同時に、命の扱いは本当に難しいものだと思い知ります。これらのように主張のための「根拠の基準」に調整が生じると、なかなか噛み合わなくなってしまいます。一見、どの主張も正しく思えるからです。まるでパラドックスのようですが、それはさておきここで扱われる「命」が主張よりも軽いものでないことを願います。
“命の番人”になるな、という教え
自著『あらゆる不調をなくす毒消し食』では妻との闘病生活について触れました。9年に及ぶ長い闘病生活の中で、「命」のことを考えない日はありませんでした。
当時は綱渡りのような毎日を過ごし、まるで福沢先生のように床で眠りに落ちてしまうような生活を送っていました。もちろん、その期間には楽しいことや嬉しいことも山のようにあり、そのコントラストのおかげで「人生にも品質がある」ということを強く感じられるようになったのです。
ここで私が言う「品質」は、命の大切さや価値が場面や対象によって上下するといったことではありません。むしろ命というかけがえのないものを扱っている時でさえ、私たち人間の判断は揺らぐことがあります。だからこそ、用心深くしていなければならない。大胆さと大雑把を履き違えてはならない。このようなことが「品質」を決めるかもしれないと感じています。
これらは他の場面、とりわけビジネス書などでは名を変えて重要なものとして扱われていますが、人生や命と並べられると、途端に発散する方向へ向かうのみです。このような「自由」と名付けた放置を「品質」と解釈してしまうと、事は容易には済まなくなります。例えば、何でもやりたい放題やりながら健康を取り戻す方法を聞きたがる人がいます。しかし、やりたい放題やってきた結果が現状を招いたという自覚がないと改善はなかなか難しいものです。
また、「何でもする」と言いながら、食生活などの生活習慣に関する制限の話を聞くとげんなりする顔を見ることも少なくありません。こうした状況に出くわすと、これまでの習慣は命よりも重要なことのようにさえ映ります。とはいえ、やりたいことがある。またはやりたいことを探したい。だから健康でありたい、健康を取り戻したいと人は願うのだと思います。その途中に医療者が立ち、必ずしも健康自体が目的ではなく、たとえ不完全であってもやりたいことに進むための体づくりをサポートするのです。
命よりも優先したいものが人にはあるのかもしれないと少し考えてみると、自分の立ち位置が大きく変わります。「完全体」は究極すぎるかもしれません。そうである必要もないかもしれません。例えば歯科の場合、「痛くなければ通院しない」という方が非常に多いのですが、そういうことかもしれないと解釈しています。
仏教の開祖である釈迦は、弟子たちに葬式の参列を禁じたと言われています。なぜなら、彼らが死の番人になり権力を持つべきではないと考えたためです。これを知り得てからというもの、私は医療者として健康と不健康の“番人”に成り下がっていないか、時々振り返るようにしています。
「不健康を気にしないことが健康」と2冊の自著で著しましたところ、緩すぎるという声もいただいたのですが、今回の内容のようなことも葉池に考えながら申し上げた次第です。ご不満もあるかと思いますが、今後ご一緒に考えていけるお仲間となっていただけたら幸いです。
※本記事に記載している各データは、筆者が執筆時(2021年6月時点)の数値となります。現時点で公表されている数値とは異なる場合があります。
<参考文献>
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